茨城町立上野合小学校
ホーム 学校紹介 教育目標 年間行事 地域自慢 アクセス 上野合伝統





















埴輪窯跡の発掘調査風景(昭和63年)
小幡北山埴輪製作遺跡
  [おばたきたやま はにわせいさくいせき]
   園内マップ

 小幡北山埴輪製作遺跡は,埴輪という焼物をつくっていた工場の跡です。材料の粘土を掘った跡,埴輪の形をつくったり,保管しておいた建物の跡,埴輪を焼いた窯の跡がみつかっています。窯の数は59基と全国で一番多く,平成4年(1992)国の指定史跡になりました。
 埴輪は人物や馬,円筒形などいろいろな種類があります。町内からはこの遺跡でつくったと思われるいろいろな埴輪がでています。前田にある上ノ山古墳から出てきた埴輪も,ここでつくられたものです。

円福寺
[えんぷくじ]



木造 阿弥陀如来三尊像(県指定文化財)

 弘仁3年(812)建立の寺伝が残る円福寺は,法叡山高岳院院円福寺と号する天台宗のお寺です。
 阿弥陀如来坐像は国指定重要文化財。平安時代末から鎌倉時代はじめ頃に造られたものです。また室町時代の絹本著色阿弥陀如来像や,徳治2年(1307)造立の銘札の残る阿弥陀如来三尊像があり,ともに県の文化財にしてされています。
 境内の小栗堂には小栗判官と照手姫の像が祭られています。また本堂前に松尾芭蕉が石川県の全昌寺でよんだ俳句「庭掃て出ばや寺に散柳」の石碑が立っています。
    お寺の紹介
勘十郎堀
[かんじゅうろうぼり]


水田として利用されている勘十郎堀(城之内地内)
 運河の名として残る松波勘十郎は,藩政改革の請負人として水戸藩によびよせられ,宝永の改革を一手に任された男です。
 宝永の改革の中心といえるのが運河工事でした。江戸・東北間の物資輸送の重要な場所に運河をつくり,その通船税で藩の財政を建て直そうとしたのです。計画された運河は紅葉運河と大貫運河の2本,着工は宝永4年(1707)の夏でした。
 紅葉運河は,涸沼西岸の海老沢から北浦にそそぐ巴川流域の紅葉(鉾田町)にいたる約10キロメートル。大貫運河は大貫(大洗町)から涸沼川までの約1キロメートルです。
 台地を人力で掘り下げる紅葉運河の大工事は,農民たちを苦しめました。日雇い銭も支払われず,やがて一揆に発展し,改革は宝永6年(1709)1月中止となりました。
 勘十郎堀(紅葉運河)は,当時の農民たちの苦労や江戸時代の土木技術を物語っています。
   マップ


本丸西側の堀底道
小幡城跡
[おばたじょうあと]   城跡マップ

 三方を水田に囲まれた,西に広がる舌の形をした台地,小幡城はそういう地形に築かれた中世のお城です。
 この城を築いた人物,小幡氏については,はっきりしていませんが,下流の鳥羽田氏や海老沢氏と同じ一族であったと考えられてます。
 複雑に入りくんだ郭や変形武者走り,櫓跡,折など,ここではさまざまな工夫がみられます。
 本丸に残る井戸には,落城の時に金の鳥を抱いたお姫様が身を投げたという,悲しい伝説が残っています。

 このページのトップへ

tiikijiman.htmlへのリンク